令和元年6月27日に行われました理事会の決定を受けまして、片桐秀人前理事長からの職を引き継ぐこととなりました。法人立ち上げから30余年の間、各種事業の立ち上げに尽力し、大きく発展を遂げた法人の引率者であった前理事長からの継承は、私にとりましても大きな決断であり、身の引き締まる思いでいっぱいです。
昭和62年「共同作業所こぶし園」の立ち上げを契機に、平成9年「社会福祉法人信濃こぶし会」の認可をいただき、翌平成10年に待望の「通所授産施設こぶし園」の開所となりました。準備段階から法人設立まで中心的役割を担ってこられた方々が「障がいをお持ちの親御さん」です。「安心して暮らせる地域をつくるために」を最大のモットーに、大変なご苦労をされながら今日に繋いでいただきました。
バトンを引き継ぐ私たちによって、更にこの先5年・10年と保護者の熱い思いが詰まったこの法人を守り、更に発展を遂げて参りたいと改めて決意した次第です。
少し前の話になりますが、ある業者のサラリーマンが当事業所を訪問されました。そのセールスマンは営業で1日中各所を回りましたが思うような成果がなく、体力・気力とも限界だったようです。挙句、私どももお役に立てることなくお帰りいただくことになりました。帰りがけにそのセールスマンがこう話されました。「今日一日全く成果がなく、最悪な一日になると思っていましたが。しかし、こぶし会の皆さんが、とびっきりの明るい挨拶をしてくれ、沢山話し掛けてくれました。こんな明るい気持ちで一日が終われ、今日は最高の一日になりました」と。
周りの方々を明るくする・元気にする魅力いっぱいの利用者さんと、そんな素敵な皆さんを支え・応援する職員は当法人の最高の美力です。
利用者さんのしあわせは、そのご家族と職員のしあわせになります。職員のしあわせもまた、その家族をしあわせにします。しあわせの連鎖が長く続く法人運営をすべての職員と共に創り上げて参ります。今後とも、なお一層のご指導をよろしくお願い申し上げます。
社会福祉法人信濃こぶし会が目指すもの
「共同作業所こぶし園」は昭和62年1月に障がいの子を持つ親たちによって作られた就労の場である。この親たちの子育て時代はまだ就学免除制度があり、学校に入れて貰えるかどうか案じての子育てだった。世間では「あの家には馬鹿がある」と影でささやかれ、親も人目にかくすようにして育て、自らも肩身の狭い思いをしながら学校に通わせて来た。義務教育は昭和54年に全員就学の実施によって安心して学校に行けるようになったが、この飯伊地域にはまだ養護学校はなかった、幼くふびんな子どもを伊那養護までやることは子供も辛いし親も辛かった。特殊学級に在籍する親や当地から伊那養護に在籍する親や教育団体によって飯田養護学校の開設運動が起こった。飯田養護学校は昭和60年に開校となり入学できた。入学はできたが続いて卒業後の進路の課題があり、この運動に参加した親たちによって施設づくりの取り組みが行われた。飯田養護のPTAでも学習や施設見学が行われ、種々な模索が行われたが具体化は出来なかった。
その渦中にあって豊丘村手をつなぐ親の会は村に「障害者老人等共同作業訓練事業」の開設を陳情していた。この陳情に村も議会も同意してくれて準備が進んでいた。多くの親たちは一歩先を行くこの動きを注視していた。村は施設整備をして親の会に運営を委託した。
受託した親の会は先例も指導もなく手さぐりの運営を始めたが、作業の面でも資金の面でも苦しい運営を迫られた。それでも年を経るに従って園生も増え体裁も整い当初の目的は達成できた。
しかし、この先を考えると運営の面でも、親亡き後ついても不安があり、その不安を解消すべく法人化を目指すことを決めた。平成9年社会福祉法人信濃こぶし会の認可を受け、翌年4月「通所授産施設こぶし園」を開設することが出来た。
平成18年障害者自立支援法」が成立施行され、信濃こぶし会はこの法律の目指す事業者になって「安心して暮らせる地域をつくるために」を目標に掲げ「地域で生涯を」送れる体制を作って行くための事業を展開して来た。
年々利用者も増え支援する職員も増えて来た。障がいの子のために障害者のために行動する親たちの背中を見、利用者の想いを知り、障がい特性である利用者の純粋さ優しさに魅せられ働き甲斐を見つける職員や、利用者の兄弟姉妹もあり、こうした環境の中で、法人の理念、倫理綱領、行動規範が作られてきている。
知的障害者福祉の先駆者糸賀一雄先生の言われた「この子らを世の光に」の想いを念頭に置き、法人運営をして行きたいと考え挨拶と致します。